![]() 病院長 髙蓋 寿朗
|
広島の夏の暑さがひときわきびしいのは「夕なぎの時間に風が止まるから」とよく言われますが、もしかすると、「80年前のあの夏のことを思い出させるから」かな、と思うことがあります。舟入市民病院も、あの夏、とてもつらいできごとを経験し、そして現在につながる復興への第一歩を踏み出した歴史を持っています。
1945年8月6日の原爆の爆風と熱波は、当時の当院のすべての建物をなぎ倒し、焼き尽くしました。天野勲院長をはじめ職員16人が死亡し、生存不明者も11名あったという記録があり、診療機能は完全に失われてしまいました。
そんな中、8月9日頃から下痢や血便を訴える市民が急増し、伝染病の発生が疑われました。この症状は「原爆症」であったことが後日判明しますが、当時は「赤痢」などの伝染病と考えられたのです。当時、伝染病院でもあった当院は、県や陸軍の要請を受けて、被爆からわずか11日目の8月17日に、焼け残っていた八丁堀の福屋百貨店を「臨時伝染病院」として診療を再開することとなりました。
臨時院長となった広島市医師会長の吉田寛一先生をはじめ、生き残っていた医師5,6名と看護師等約20名での診療が開始されます。被害が大きかった市内中心部での診療であり、その悲惨な状況は想像を絶するものであったと思われます。昼夜の区別なく懸命に診療にあたられた吉田院長は、疲労と原爆症とみられる症状で9月3日に亡くなっておられます。その後、9月15日には、現在の西区古江にある古田小学校内に移転して診療を継続し、翌年には、現在の場所でバラック建物での診療を開始しています。
病院自体があとかたもなく消えてしまった焼け跡から、不死鳥のようによみがえった当院の歴史とその精神は、その後の当院職員にも、困難に立ち向かう勇気を与えてきました。
その後の当院は、ひきつづき感染症対応の拠点としての機能を維持し、さらに、それぞれの時代において、市民のみなさんが求める医療(被爆者医療,夜間救急医療,小児救急診療など)をお引き受けして、現在に至っています。
これからも、当院は「舟入市民病院があってよかった」と言っていただける病院でありつづけたい、と思っています。
被爆80周年の夏、あの時のようなできごとが繰り返されることがないことを願い、平和への祈りをささげたいと思います。
2025年(令和7年)7月
広島市立舟入市民病院 病院長 髙蓋 寿朗
Copyright© Hiroshima City Funairi Citizens Hospital All right reserved.